東海道を歩く<破>

 

 案の定、始発の乗客者数は少なかった。電車の連結部に一番近いところに陣取ると、京都駅に着くまでは外の景色をぼんやりと眺めていた。
 そのときのことを私はほとんど覚えていない。一段と夜の闇が深くなったかと思えば東の空から幾層もの幻想的な色のヴェールが朝を取り戻しにきたことと、ありふれた住宅街がどこまでも続いていたことしか覚えていない。

    あとはそう、大阪駅近辺で乗客数が一番多くなったけれど、一五〇センチメートルほどの輪行袋はそれでも乗客の迷惑にならなかったことくらいだ。私はほっと胸を撫で下ろしていた。

 京都駅では、改札前の売店で飲食物とティッシュペーパーを買った。花粉が飛び始める季節だったからだ。
 空は既に薄い青に染め上げられていたが、多くの人々が働き始める時刻には早かったらしく、売店が開くまで改札前で五分ほど待った。右肩に背負った輪行袋のせいで支払いには手間がかかった。
 私は買い物を済ませると、八条口のタクシー乗り場の一角へと歩いた。そして、輪行袋からは自転車本体と前輪のタイヤを、リュックサックからは六角レンチと、自転車本体と前輪のタイヤの接合部の部品と、チェーン用の潤滑油を取り出し、自転車の組み立て作業を始めた。
 東京のサイクリング・ショップと家で、これを練習していた頃は四苦八苦していたが、もうすっかりと慣れたもので作業はスムーズに進んだ。

 二〇分ほど経つと、自転車は、十全に自転車の役割を果たせる形に整えられていた。輪行袋は煎餅ほどの大きさになって、六角レンチや潤滑油と一緒にリュックサックの中にしまわれていた。
 ここからが旅の本番だ、と私は意気込んだ。
 東海道五十三次の始まりは三条大橋(本来の始まりは日本橋で本来の終わりは三条大橋かもしれないが、ここは便宜的に始まりと終わりを逆にする)なので、正確には京都駅から三条大橋までの区間はウォーミング・アップのようなものなのだが、それは違う、と私はなんとなく何かを感じ取っていた。
 自転車を、あるべき形に戻した時点でスタートなのだと思っていたのだろう、おそらく。

 

 小休止に、私の文章中の文末に付く、おそらく、について弁明のような注釈を付けておく。とどのつまり、これは私が、過去の私の心情についての確信を持っていないことに起因している。
 おおよその人間は彼自身や他者についての記憶を、誰かに(ほとんどは自分自身に)都合が良いように改竄していると私は考えているし、それは私自身も例外ではないと思っている。
 だから私は、とりわけ過去の心情の文については、おそらく、という事象を曖昧化させる言の葉によって、読み手に、ひいては私自身の認識に、万が一にも誤りを与えないようにする。
 おそらくについては、そんなふうに、母国語映画の母国語字幕を見るようにしてほしいのです。あるいは、それは要らないのかもしれないけれども、それを入れることによって、より誤りは少なくなる、と私は思うのです。映画は聞き間違え、文章は読み間違え。

 

 京の都も閑散としていた。午前七時前とはいえ、ここまで人が少ないのは不自然なように思われた。
 スマートフォンの地図アプリを用いながら三条大橋に向かっていたが、どこもシャッターが閉まっていたし、道すがら見かけた人は百人となかった。
 なぜ、と考えてみたところ、すぐに原因に思い当たった。新型コロナウィルスのせいだろう、と思った。中国人観光客が街からいなくなり、SNSでは、特に京都から人が消えている、との情報が流れていた。
 だから、これほどまでに人の気配が薄い、と私は納得した。そして、東海道五十三次のスタート・ラインに着いた。

 

 三条大橋の写真を記念に何枚か撮ると、私は四条通を一気に抜けた。
 旅の序盤も序盤で体力が有り余っていたし、朝だからか人も車も少ないうえに道は整備されていて走りやすかったし、さらに京都府三条大橋から滋賀県大津宿までは良い景色がいくつもあったからだ。平安神宮を横目に見ることができ、淡い靄がかかった色彩豊かな緑の深山も趣が深かった。そして、良い景色を眺めると、どういう仕組みかわからないけれど、体の内から活力が湧いてくるものなのだ。
 次の草津宿付近も良かった。雄大な琵琶湖を間近に見ることができたし、草津名物うばかもちを売っているお店にも会えたからだ。走行ペースを優先して寄らなかったけれど。
 ただ、次の石部宿からは、ほとほと旅先特有の高揚感が萎えた。退屈であった。ここからは行けども行けども大型のショッピング・センターが並んでいた。そのうえ道路の舗装状況が悪く、一〇秒に一回はある地面の凹凸のたびに手が痛んだ。この先この旅で何度も思うことだが、もし車で来ていれば、どれだけ精神面への負担が少なかったろうと初めて思う、土山宿までの二五キロメートルであった。

 そして、鈴鹿峠を越えることになった。土山宿の次の坂下宿は鈴鹿峠の途中にあるし、その次の関宿は峠の和歌山県側の麓にあるからだ。
 緩やかな上り坂と代わり映えしない景色がずっと続いていたことに、心は砂漠と化しつつあったので、どちらでもない鈴鹿峠を私は歓迎した。


 峠を越えるとマシな気分になっていた。
 下り坂の途中で国道から坂下宿に寄り道し、また国道に戻ると関宿まで一漕ぎで下った。ずっと下り坂なのは最高だったが、急な傾斜で、ブレーキをかける両手を酷使した。自転車が私の制御から外れて車に当たる恐れがあった。後日、左手に血豆ができた。

 関宿は、人通りの多い観光地だった。
 亀山宿では、亀山城を直に眺めることができた。
 石薬師宿までの道は普通の住宅街だった。
 四日市宿に辿り着くと、夕暮れらしい、明るくも暗い橙が空に染み込んできて、とても物悲しかった。人通りが少なく殆どのお店がシャッターを閉めているというのは京都と同じであるのに、どこか違う気がした。時刻が異なるせいかもしれない。しかし本質的には同じことのように思えた、おそらく。

 

 その日は、四日市宿の次の桑名宿周辺に泊まることにした。少なくともと、あわよくばの真ん中であった。
 自転車置き場に自転車を置き、チキン・カレーと蜂蜜ナンをインド・ネパール料理屋で食べ、カプセルではないホテルにチェック・インした。そしてホテルの自室で寝支度を済ませると、布団をかぶって寝た。




東海道を走る<序>

 

 

 午前四時半の三ノ宮駅のホームは閑散としていた。大阪方面にしろ、姫路方面にしろ、一つのドアに人が一人いるかという具合で、まるで墨汁で塗り潰されたかのような夜明け前の空が、これに拍車をかけていた。
 私は一人で暇だったので、輪行袋を内から張り裂かんばかりの自転車のタイヤを抓み、指に力を入れたり抜いたりして遊んでいた。常ならばスマートフォンの電源を入れて、SNSで退屈を紛らわしているところだが、これからのことを考えるとそうはいかなかった。
 その日は少なくとも、京都県の三条大橋から三重県四日市宿まで、自転車と、スマートフォンの地図アプリと、この体と心を頼りに走らねばならなかったからだ。もしうまくいけば愛知県の宮宿まで行こうと思っていた。よって、三ノ宮駅のホームでムダに消費できる電池は一パーセントもなかった。

 

 この旅の目的は、東海道五十三次ロードバイクで走りきることである。
 なぜ東海道を自転車で走るのかと、ある種の根源的な問いをする人は多い。この質問のニュアンスには、危険な、奇妙な、何の得もなさそうな、がおおむね含まれているが、そう聞かれると私は非常に困ってしまう。なにしろ、そういう根源的な動機の記憶は全くと言っていいほどないからだ。
 この旅の四年前に、母と叔母に旅について話したことが最古の記憶であり、これ以前にあれこれと考えた記憶はないが、そのときに思い付いたことではない、おそらく。 
 だから、先の問いに対する答えは次のようになる。「過去の自分の発言をウソにしないために」走る、と。

 

 また、自転車旅はテントで野宿をするんだろうとか、多くの備えをすべきだと助言をくださる人も多い。しかし、この旅の荷物は自転車と、リュックサック一つ分で済む。
 リュックサックの中身は、ヘルメット、六角レンチ、チェーンロック、チェーン用の潤滑油、行動食、水、お金、スマートフォン、健康保険証、五日分の下着、パジャマ、歯ブラシ、ひげ剃りだけだ。
 意外に多いことに書き出してみると気付いたが、海外への旅に必要なものと比べれば遥かに少ない。替えの服に困ったら旅先で買えばいいし、空気入れも、替えのタイヤチューブも、パンク修理キットも必要ない。テントを始めとするキャンプグッズも不要だ。
 もちろん、これらはあるに越したことはないが、なくても問題ないし実際に何とかなった。私の持論でしかないが、これらはただ荷物を重くしてペースを遅くするだけだ、ただし東海道に限るが。  
 そしてこれは、あくまで男の体と心を持っている私の場合で、どちらも女となると勝手が違ってくるのかもしれないし、どちらにも当てはまらない場合も違うのかもしれない、と注釈を付けておく。

 

 ところで勘の良い読者様がお察しの通り、私は三ノ宮駅から京都駅は電車で、そこからは日本橋まで数日かけて自転車で走ることにしたわけであるが、実は私の出身地は兵庫県ではなく東京都であったりする。
 京都駅からの旅の前日に、私は東京都から自転車を伴って兵庫県へと行った。その日には父の実家の家族と会う約束があり、これを確実に守るためだった。

 

 ここで余談だが、旅行の前日について振り返る。
 まず三ノ宮駅近くのカプセル・ホテルに行き、輪行袋に包まれた自転車を預けると(新神戸駅から徒歩で運んだが、持ちづらいし重いしで肩が痛んだ)夕方になるまで観光をした。
 その際に『三宮一貫楼』で豚まん、叉焼まん、ピリパオを一個ずつ食したが、生地はモチモチと弾力があり、具はぎっしりと詰まっていて素晴らしかった。特に叉焼まんは私好みで、これだけのために毎月行ってもよいと思えるくらいだった。

 祖父母家族とは夜に対面し、それからは酔っぱらった父に連れ添って(連れ回されて)街を歩いた。そしてホテルに着いてからはシャワーに入ったが、酔った父がサウナの中で意識朦朧としていたことには焦り、慌てて着替え室へと連れ出した。あの死にかけのカエルのような、とろんとした眼は忘れられない。
 父を父のカプセルまで送った後は、私は私のカプセルに入って横になった。そして、明日の時刻表と、三ノ宮駅から京都駅の通常の混雑状況を調べた。
 結論としては、午前五時までに起きたときは、すぐにチェックアウトして駅に向かい、それ以降に起きてしまったら、通勤ラッシュが終わる午前一〇時頃まではホテル周辺にいる、というものだった。混雑時に自転車の容積は邪魔でしかないだろう。

 更に余談だが、人生初のカプセル・ホテルは人のいびきが凄まじく、容易に眠りにつくことができなかった。
 カプセルに入ったのは午後一〇時前だったが、寝ることができたのは午前二時前である。五時間は寝られるだろうという目算は見事に狂わされた。
 スマートフォンで調べものを終えてから三〇分は頑張って寝ようと試みていたが、しばらくすると諦めてイヤホンでドイツ語の『魔笛』を延々と聞いていた。モノスタトスがザラストロに七七回の鞭打ちの刑を受けたところで意識が遠のいた気がする。